イギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルの成功物語
19世紀の半ば頃、イギリスの下層階級の上程度に属するユダヤ人一家があった。 この一家は東ヨーロッパでのユダヤ人迫害を逃れてイギリスに移住してきた人たちであった。 この一家の両親は車に雑貨品を積んで売って歩く街頭商人として暮しを立てていた。 この両親には子どもが11人いて、その10番目の息子は大変頭がよく活力に満ちあふれていた。 しかし、その息子の学校での成績は悪く、その息子はどの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。 と言っても、その息子は頭が悪いというわけではなく、その息子の気持ちが学校の授業に合わなかったのである。 その息子が高校を卒業したとき、父親はその息子に極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。 そのとき、父親はその息子に2つの条件をつけた。 1つ目は、金曜日の安息日が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。 それは、母親を安心させる為である。 2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを旅行中に考えてほしいということだった。 その息子は18歳のとき(1871年、明治4年)、ロンドンから独りぼっちで船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。 彼は途中どこにも降りずに船の終点である横浜まで、まっすぐにやってきた。 彼は懐(ふところ)に入れた5ポンド以外には何も持っていなかった。 5ポンドといえば、凡そ今日の5万円程度のお金である。 日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。 また、この時代、日本にいる外国人は、おそらく横浜・東京あたりに数百人いるにすぎなかった。 彼は湘南の海岸に行き、潰れそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。 そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。 よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。 その貝を手に取ってみると、その貝は大変美しかった。 彼は、こうした貝を様々に細工したり加工したりすれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。 そこで、彼は自分でもせっせと貝を拾い始めた。 その貝殻を加工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町で売り歩いた。 当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。 やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店(サミュエル商会)を開くことができた。 この商店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして、最初はロンドンの下町イーストエンドにあった店舗をウエストエンド(行政機関、高級商店、歌劇場などの文化施設が集中している)へ移すなど、この貝殻を元にした商売はどんどん発展していった。 そのあいだにも日本にいた息子は、かなりのお金を貯めることができた。 この青年の名前はマーカス・サミュエルであった。 マーカス・サミュエル(1853年〜1927年)は1876年(23歳の時)に、横浜に「サミュエル商会」の支店を開設し、弟のサムと協力して日本製雑貨類をイギリスへ輸出し始めた。「サミュエル商会」の横浜支店は日本製雑貨類の輸出だけでなく、日本の石炭をマレー半島へ輸出して販売し、日本の米をインドへ輸出して販売し、外国製工業製品やロシア・バクー産灯油を日本に輸入して販売するなど、世界を相手にして、商売を大きく広げていった。
この時代(1870年頃〜1910年頃)、世界中のビジネスマンのあいだで一番話題になっていたのが石油だった。 この時代、
世界中で照明用の燃料としての灯油の需要が高まり、1870年代にニコラウス・オットーがガソリンエンジンの原型となる内燃機関を作り、1885年にゴットリープ・ダイムラーが熱管点火式ガソリンエンジンとそれを取り付けた二輪自動車(オートバイ)を作り、同じ1885年にカール・ベンツが実用的な電気点火式ガソリンエンジンとそれを取り付けた三輪自動車を作った。 このような状況の中で、石油(原油)の需要が高まっていた。 ジョン・ロックフェラーが石油王となったのも、この時代だったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。 貝殻の商売で大成功を収めたサミュエルも1880年代の末頃から石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。 彼自身、石油の採掘についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネシアのボルネオ島あたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアのボルネオ島で石油を探させた。 そして、幸運にも、うまく石油を掘り当てることができた。 当時のインドネシアでは、暖房用に石油を使う必要もないし、また、照明用の燃料としての灯油の需要も無かったので、石油の売り先はインドネシア以外に求めなければならなかった。 そこで、彼は1900年に「ライジング・サン石油」を設立して、日本に石油を売り込み始めた。 この頃の日本において、灯油を燃やして暖房したり、照明したりすることは革命的なことだった。 この商売も非常に成功した。 しかし、石油(原油)をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは頭の痛い問題だった。 初めのうちは石油(原油)を2ガロン缶に詰めて運んでいたが、石油(原油)を船で運ぶと船を汚すので、後で洗うのが大変だった。 それに火も出やすいということで、船会社が石油の運搬を嫌がった上に、運賃がべらぼうに高かった。 そこで、サミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてタンカー(石油運搬専用の船)を造った。 彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝殻の名前をつけた。 彼はこのことについて、次のように書き残している。「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝殻を拾っていた過去を決して忘れない。 そのお陰で、今日億万長者になることができた」。 1894年に日清戦争が始まると、サミュエルは日本軍に食糧や石油や兵器や軍需物質を供給して助けた。 そして、日清戦争後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。 その当時の台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒患者がとても多かった。 台湾総督府はアヘンを吸うことを禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。 サミュエルは、この施策に大きく関わり、その功績を認められて、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」を授けられた。
一方、サミュエルの石油事業が成功すればするほど、ユダヤ人サミュエルの活動に対してイギリス人の反発が強まった。 そこで、サミュエルは、それらのイギリス人と共同して石油事業を行なうようになり、1897年に「シェル運輸交易会社」が設立された。「シェル」という名前が付けられたのは、サミュエルが湘南海岸で貝殻(シェル)を拾っていた頃を記念する為であった。 1907年、オランダ企業「ロイヤル・ダッチ石油」とイギリス企業「シェル運輸交易会社」とが合併して、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。 この合併を推進したのはイギリス・ロスチャイルドだった。 現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はロスチャイルド系列企業群の中核になっている。 因みに、イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油、略称は BP)は「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在である。
サミュエルはイギリスに戻って名士となった。 そして、彼は1902年にロンドン市長になった。 彼はユダヤ人として5人目のロンドン市長である。 彼は市長就任式に日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。 同年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは異例なことだった。 この事実は、彼が如何に親日家だったかを示している。 因みに、2台目の馬車には、サミュエルの夫人と、林公使の夫人が乗った。
サミュエルは1921年に男爵位を授けられて、貴族となった。 その4年後には子爵位を授けられた。 その後、サミュエルの寄付によって、ロンドンに「ベアステッド記念病院」が建てられ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に74歳で生涯を閉じた。 サミュエルは「どうして、それほどまでに日本が好きなのか」という質問に対して、次のように答えた。「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。 日本は安定しているが、中国は腐りきっている。 日本人は約束を必ず守る。 中国人はいつも変節を繰り返している。 従って、日本には未来があるが、中国には未来がない」。
追加情報2: 「ロイヤル・ダッチ・シェル」について
広瀬隆氏の著書『赤い楯』(集英社)の中で「ロイヤル・ダッチ・シェル」について書かれている部分を載せておく。
第二次世界大戦当時、イギリス・ロスチャイルドの傘下にあるイギリス企業「ロイヤル・ダッチ・シェル」はソ連のバクー油田で調達した石油をドイツへ供給して戦争を持続させた。 石油は軍艦・戦闘機・戦車などの動力源であり、弾薬の源であった。 そんな大事な石油をイギリス企業「ロイヤル・ダッチ・シェル」が敵国ドイツヘ供給したのには、それなりの理由があった。 ヘンリー・デターディングという男がオランダ企業「ロイヤル・ダッチ石油」(ロイヤル・ダッチ・シェルの前身) の中でのし上がり、1900年にこの会社の社長となった。 1907年、オランダ企業「ロイヤル・ダッチ石油」とイギリス企業「シェル運輸交易会社」とが合併して、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。 この合併を推進したのはイギリス・ロスチャイルドだった。 こうして、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はイギリス企業として、イギリス・ロスチャイルドの傘下に入った。「ロイヤル・ダッチ石油」の社長だったヘンリー・デターディングは「ロイヤル・ダッチ・シェル」の社長となった。 彼はこの社長職を務め続け、“石油業界のナポレオン” の異名を取り、“ヨーロッパの石油王” とも言われるようになった。 ロシア革命後の1920年、ソ連(赤軍)がバクー油田を国有化した。 その為、デターディングは石油(原油)の確保にひとかたならぬ苦労をすることになった。 そこで、彼はソ連(赤軍)を敵と見なし、ソ連を相手に闘い始めた。 彼は共産主義を憎む資本家の象徴となった。 デターディングの妻の父親は、ロシア革命によって倒された帝政側の将軍だった。 しかし、デターディングはナチ党員の女性と再婚し、自らナチ党員となり、ドイツに定住して次々とヒトラーの組織(ナチス)に資金を与え始めた。 デターディングは、ユダヤ人ラーテナウ外相が敷いたドイツ・ソ連の外交路線を悪用してバクー油田から石油を調達し、その石油をドイツヘ供給した。 デターディングは第二次世界大戦開始の7ヶ月前にこの世を去ったが、第二次世界大戦が始まってからも、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はバクー油田から調達した石油をドイツへ供給し続けた。
第二次世界大戦の開始から9ヶ月後の1940年6月7日、ドイツ政府は次のように声明した。「わが国のガソリンは、ソ連とルーマニアからの大量の石油輸入によって確保されているのである」。 この石油を運んだのが、イギリス・ロスチャイルドの傘下にあるイギリス企業「ロイヤル・ダッチ・シェル」であった。 第一次世界大戦の終結時から第二次世界大戦中にかけて、石油は世界的に不足し、ナチスの台頭とユダヤ人問題とを実業界の重役陣が議論する空気はどこにもなく、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が石油をドイツに販売した事は自然な商行為であった。 一方、ソ連では国内の石油が不足し始め、1940年11月にはソ連のモロトフ外務大臣がヒトラーに中東の石油を要求した程であった。 そして、1941年5月23日、ヒトラーがロシア油田の共同開発をソ連に申し入れたとき、盟友であるはずのスターリンはヒトラーの申し入れを拒否した。 この時点で、すでに両人とも相手がどれほど危険な人物であるかに気づいていた。 それから僅か1ヶ月後の1941年6月22日、 ナチス政権が独ソ不可侵条約を破棄し、バルバロッサ作戦を実行に移し、ドイツ陸軍がソ連への侵攻を開始した。